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水たまりの中の青空

#15 失われた関係

 非常電話の連絡により、地震による停電で停止したが、エレベーターや建物にはまったく問題無いと言われ、二人は少し落ち着きを取り戻した。
 だが奈津の体は震えが止まらず、立とうとすると足がぐらついた。

 幸介は自分のハンカチを広げ床に置くと、奈津をそっとその上に座らせた。
 ありがとう――と奈津に見上げられ、幸介は照れくさそうに向かいの地べたへ座った。

 地震の規模が大きかったのか、その後も余震が続き、その度に緊張と重い空気が流れた。

 幸介はなんとか雰囲気を変えようと、あるアイデアを思いついた。

 「奈津さん、しりとりをしませんか?」
 精神的に参っていた奈津は、それが幸介の気遣いだと察し、ええ――と答えた。
 「まず、奈津さんからどうぞ」
 突然ふられた奈津は、とりあえず頭に浮かんだ言葉を言った。

 「じゃあ、キリン」
 「キリンかあ…………(ん)?」

 二人は同時に吹き出すように笑った。

 「駄目ね、私って」
 「突然だったから仕方ないですよ」
 一気に場が和んだ。

 (なんでこんなに心が安らぐんだろう……)
 (このまま、彼女を守ってあげたい)

 お互い心の内で、相手への思いが交差した。

「今度は幸介さんから始めて」
 幸介は奈津からバトンを受け、何か気の利いた言葉を言いたかったが、アヒル――と平凡な言葉が口をついた。

「アヒル、ね。――ル、ルビー」
 幸介はやっぱり、という表情になった。
「じゃあ、ビール」
「ひょっとして、幸介さんは飲めるほう?」
「いえ、付き合い程度ですけど。でも、今なら何杯でも行けそうかな」
「蒸し暑くなってきたものね」
 幸介は奈津に上着を脱いだら、と勧めたかったが、相手が女性だと躊躇して言えなかった。なので、自分もスーツの上着を脱げずにいた。

「次はル、ね。――え、またル?」
 奈津は悪戯っぽく幸介を睨むと、幸介は笑いを噛み締めるように俯いた。

「じゃあ……ルールブック」
 奈津は自分で呆れたように手で顔を覆った。
 幸介はルールで止めとけば良かったのに、と思いながらも、編集者の彼女らしいなと、微笑ましく目を細めた。
「じゃあ、次はクですね。ク――草むら」
「草むら? 草むら、草……」

 奈津の表情が、一転して険しくなった。

「ねえ幸介さん、さっきどうして逃げたの?」

 幸介は思わず息を呑んだ。
 そして彼女の何かを探るような目に、不安を煽られた。

 幸介は冷や汗をかきながら、必死にいい訳を考えていた。
「あのときは、つい……近子さんがヤキモチを焼くと思って」

 奈津は近子の名前を聞き、心が締め付けられる思いがした。
(近子と一体何があったの?)

 近子が明彦を好きなことは知っている。だから、二人の恋愛話に違和感を感じていた。ただ、なぜ幸介がこんな芝居をするのか、それが気がかりだった。

「やっぱり近子とは、最初のデートでフランス料理を食べに行ったの? 彼女、おしゃれや演出にはすごくこだわるから」
 幸介は慌てた。近子の好きな料理も、デートの好みも、何も知らなかったからだ。
「え? まあ、フルコースを……」
 幸介は当たり障り無い返事を返した。

 だが、奈津のほうはショックを受けていた。
 近子はフランス料理を食べない。カマをかけたのだ。
「彼女は、最初のデートではイタリアンって決めてるの、聞かなかった?」
 幸介は絶句した。もう――駄目だ。

 そのとき、突然エレベーターが動き出し、復帰した蛍光灯に二人がハッキリと照らし出された。

 幸介は居ても足ってもいられず、立ちあがった。
 それにつられるように、奈津も壁に寄りかかるように立った。

「どうして嘘なんかついたの?」
「それは…………奈津さんが、婚約すると聞いたからです」
 奈津は目を見開いた。
 婚約の話は誰も知らないはずだった。それに、幸介が自分と明彦の婚約を邪魔しようとしていた。そう思うと、もう何も信じられない気持ちになった。

「赤堀さんがどういう人なのか、僕は知りたかったんです。本当に、奈津さんを愛しているのか」
「やめて! ――聞きたくないわ」

 エレベーターが一階に着くと、奈津は幸介を避けるように走り去った。

「奈津さん!」

 幸介は叫んだが、追うことは出来なかった。彼女を裏切った、その思いが重く圧し掛かっていた。


 パーティー会場では、ガラスの破片など散乱したものの、会は続行されていた。
 そして赤堀はメディアパーソナルによる子会社化を公式発表し、場内をあっと言わせた。

 ただ、奈津との婚約発表は幻となり、彼女が会場へ戻ることも無かった。

 彼らを取り巻く関係は、目に見えない運命に操られ、変化しようとしていた。

第1章 終わり

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