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水たまりの中の青空

#24 暗雲

 晋也は車中の沈黙に耐え切れず、カーラジオのスイッチを入れた。聞こえてきたのは女性パーソナリティーの軽快なトークだったが、隣にいる存在に気を取られている二人には、ラジオの内容などまったく頭に入らなかった。

「どこへ行くの?」

 奈津が抑揚の無い声でつぶやいた。
 だが晋也は奈津を意識しながらも、何も答えない。

「ねえ…………さっきの言葉……」
「え?」

 晋也がドキッとして振り向くと、奈津は正面を向いたまま言葉を続けた。

「忘れさせてくれる? 本当に……」

 動揺した晋也は、慌てて路肩に車を止めた。

「本気か?」
 詰めいる晋也に、奈津は黙って頷いた。
「わかった、俺が忘れさせてやるよ。だからこれからは俺だけを見てくれ。あんたを一人にはさせない」
 晋也は助手席に身を乗り出すと、激しく奈津の唇を奪った。

 そのとき奈津は、意外なほど冷静だった。というより、感情を持たなかった。
 なのに――
 心の奥では強い違和感を感じていた。それは愛の無いキスのせいなのか……

 違う――

 奈津はこのとき、初めて大切な存在に気づいた。

 (幸介さん……)

 そう心がつぶやいたとき、奈津の目から涙が溢れた。

 もう、来てはくれないの?――

 我が儘だと分かっていても、やり直せるなら――もう一度幸介に会いたいと思った。

 だが遅すぎる現実に、奈津はその思いを打ち消した。

 すると追い討ちをかけるように、突然奈津の体に激痛が走った。
 その痛みは、次第に奈津の意識を奪っていった。


 幸介は占いのあと、環とほかほかのラーメンと餃子を食べて家に帰った。もちろん、幸介の勘定もちだ。

 すると幸介のパソコンに、静香からのメールが届いていた。
 静香とは映画を観たとき以来だったが、まるで昨日のことのように、彼女に抱きつかれた感触が思い出された。
 あれは悪戯だったのか、それとも本気か――
 幸介は、あえて真実を求めなかった。

 だが彼女からのメールに、またしても幸介を悩ませる内容が書かれていた。
 今度、飲みに付き合って欲しいというのだ。それも夜、BARで。

 (試されてるのか?)

 いちを自分だって男だ。酔えば狼に変身しないとも限らない。静香はそのことを想定しているのだろうか?

 それにさっきの占いのこともある。彼女に悩み事があるとしたら、ほっとけないし――

 うーん……

 幸介は悩み迷った末、お付き合いします――と返信した。


 それから数日後、幸介と静香は地下鉄の改札口で待ち合わせをした。

 幸介は環に上司との付き合いだと嘘をつき、慣れないスーツ姿で駅に向かった。いくら環が知っている相手とはいえ、やはり女性と会うとは言いづらかった。
 一方静香は、OLらしいパンツスーツで、前回の清楚なイメージとは違い活動的な雰囲気だった。

「ねぇ、幸介さん。今日は私の言う通りにしてくれますか?」

 どういう意味だ?! と幸介は身構えた。
 それを察したのか、静香は慌てて事情を説明した。

「実は同僚と約束してしまったんです、お互い彼氏同伴で飲みに行こうって。私、つい見栄を張って彼氏がいるって言っちゃったから……」

 (ひょっとして、占いが当たったのか?!)

 半信半疑ながらも、幸介はドキドキし始めた。
 だが、うまく演技する自信なんて無く……

 (あーーどうしたらいいんだ?)

 幸介は話に乗るのが怖かったが、結局静香の顔を立ててOKした。

 だが突然静香に腕を組まれると、やはり変な方向に進まないかと心配になった。


 そのころ奈津と晋也は、都会の繁華街にいた。

「奈津、医者に酒を止められたんだろ。もう飲むのはやめろよ。彼氏の言うことが聞けないのか?」
「あと一軒だけ。そしたらあなたの好きなようにしたらいいわ」

 奈津は晋也を振り切ると、おぼつかない足取りでBARのあるビルに入った。
 エレベーターは上階から下りて来るところで、奈津は待ち切れず苦しそうに壁にもたれかかった。

 もう我慢できない晋也は、奈津を壁に押しつけ強引にキスした。

「だったら、今夜は俺んちに泊まってくれよな」

 奈津は酔いが醒めたように晋也を見た。


 幸介は静香に連れられ、夜景を一望できるBARにやって来た。東京に出てきて初めて体験するロマンチックな店である。

「幸介さんの噂はいつも静香から聞いています、とても硬派な人だって。だから今日は、私たちのアツアツぶりで幸介さんを変えちゃおうって計画なんです、覚悟してくださいね」

 静香の同僚は、屈託の無い笑顔で幸介を迎えた。

 だが幸介は、友人を巻き込んだ静香のプレッシャーが重荷だった。静香はかわいい女性だと思う。だが、どうしても入り込めない自分がいるのだ。それは多分、師範の姪っ子だからかも知れない。
 いや、本当にそうなのか――?

 幸介は今までも相手から告白されて交際を始めた。それは自分でも摩訶不思議な現象だったが、決してモテたわけではなかった。
 相手の子はみんな、恋愛に憧れていただけなのだ。害も無く都合のいい幸介は、物足りなくなったり用がなくなれば、あっさりと捨てられた。
 今でも臆病風が吹くのは、愛されたことが無いからなのだ。
 とにかく、幸介には勇気が無かった。

 とりあえず今日は無難に彼氏役を務めよう。あとで静香には、友達でいようと伝えるのだ。そう気持ちに踏ん切りをつけた幸介は、一呼吸入れるため席を立った。
 実は目の前で「あ〜ん」と食べさせあっている二人を見るのが、妙に照れくさくかったのだ。

*  *  *  *  *  *  *  *

 奈津と晋也は店内に入り、カウンター席でいつものようにカクテルを注文した。

「奈津、あまり飲みすぎるなよ。また意識無くされちゃ、元も子も無いからな」

 奈津は沈んだ表情を隠し、席を立った。

「まさか逃げる気か?」
「薬を飲んでくるわ」

 晋也はふらつく奈津を目で追いながら、つまらなそうに溜息をついた。

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介は洗面所で顔を洗い終わると、すっきりした気持ちで外へ出た。
 洗面室からの道なりは、縦長の窓がずらっと並んでいる。幸介は感動して、そこから見える夜景に目を奪われた。

「おー、東京タワーだ」

 向こうの窓にも、もたれ掛かって夜景を見ている女性がいた。
 幸介は興奮して、勢いあまって女性に声をかけた。

「きれいですよね、東京の街の明かりって」

 その言葉に女性が振り向き、幸介は思わず絶句した。

 (まさか?!)

 二人はお互い見つめたまま、動けなくなった。

 幸介と奈津――

 二人は引き合わされるように、また再会した。

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