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水たまりの中の青空

#25 発端

 幸介は奈津の姿に胸が痛んだ。
 濃い化粧に見違えるほどやつれた奈津は、まるで抜け殻のように憔悴しきっていた。
 何があったのか聞きたいことが溢れてくるのに、胸が詰まって言葉にならない。

 鼻につくほどの香水と、同時に浴びるほど飲んだであろう酒の匂いが、彼女を遠ざけているようにも思われた。

「大丈夫ですか?」

 幸介には、それだけ聞くのがやっとだった。
 だが、奈津は背を向けたまま何も言わない。

 幸介さんとはもう、会いたくないの――

 奈津の言葉が、幸介の脳裏をかすめた。奈津にとって自分は、もう顔も見たくない存在なんだ……
 頑なに閉ざされた奈津の背中を、ただ遠い眼差しで見つめるしかできない幸介だった。

*  *  *  *  *  *  *  *

「遅いなぁ……」
 静香がちょっと不機嫌そうにつぶやいた。
 向かいで彼氏と話していた同僚は、申し訳無さそうに静香に言った。
「逆効果だったかな? なんか浮いてたもんね、彼」
 その言葉に、静香はがっかりしたように椅子にもたれた。

「いまどき珍しい奴だよな、好きな女でもいない限り、こんなチャンスほっとかないぜ」
「そういう純情なとこに惹かれたのよ、ね?」
 だが、静香は首をひねった。
「私、自分に振り向かない男性が許せないだけかも」
 そして表情一つ変えず、静香はワインを飲み干した。

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介は、少し奈津の様子がおかしいことに気づき始めた。お腹のあたりを庇い、窓ガラスに映った表情も苦痛にゆがんで見えた。

「奈津さん、どこか悪いんじゃありませんか?」

 幸介が心配して覗き込むと、奈津は外を向いたまま首を横に振った。
 だが微かなうめき声が聞こえ、幸介は不安になった。

「連れの方はどこですか? 僕が呼んできます」
「いいの、平気だから……」
「だったら歩けますか? 一人で立てますか?」

 奈津は困惑したように幸介を見た。そして痛みを堪えるように、一歩足を踏み出した。
 また一歩……奈津はゆっくり壁伝いに歩いて見せた。

 だがその足取りが、奈津の衰弱ぶりを証明していた。

「僕につかまってください、帰った方がいいです」

 幸介が手を差し延べると、その手に奈津が崩れ落ちた。

「大丈夫ですか?!」
「お願い、私に構わないで」

 奈津が振り絞る声で言うと、幸介は首を横に振った。

「奈津さんは忘れたいって言ったけど、僕には忘れることが出来ませんでした。どうしたらいいのか、自分でも分からないんです」
「おい、人の女に何してるんだ!」

 奈津が息を飲んだ瞬間、男の声が割り込んできた。晋也だ。

 (人の女?)

幸介は自分の耳を疑った。奈津の恋人は赤堀だったはずだ。それも婚約までしているはずなのに――

 晋也は茫然としている幸介を乱暴に跳ね飛ばした。

「やめて晋也ッ。この人は偶然通りがかっただけなの、誤解しないで」

「へぇ、悪かったな」

 晋也はぶっきらぼうに吐き捨てた。

「もうたくさんだ」

 奈津の表情が凍りついた。

「なに? もう一度言ってみろ」

 晋也は幸介に詰め寄り、胸倉を掴んだ。
 だが逆に幸介が、晋也の腕をねじあげた。

「僕はこんな奈津さんを見るために諦めたんじゃない。こんなことになるなら、最初から奪えば良かったんだ」

 幸介は後先考えず、晋也を投げ飛ばし、奈津を抱きかかえて店を飛び出した。
 呼び止める店員の声も、周囲の存在も幸介の視野には入らなかった。


 幸介は入って来た客と入れ違いに、閉まりかけてたエレベーターに乗り込んで外へ出た。

 (まずは病院だ)

 幸介は奈津を抱きかかえたまま、大通りまで出てタクシーを拾った。夜間やっている病院を尋ねると、タクシーの運転手は慣れた様子で車を走らせた。

「どうして聞いてくれないの?」

 奈津は苦しい息の中、何度も戻って欲しいと訴えた。だが幸介は、それだけは譲らなかった。自分の手で、奈津を守ると決めたからだ。
 だから辛く当たる奈津の視線にも、幸介はじっと目をつぶり耐えた。
 奈津は幸介の腕を何度も揺さぶったが、次第に力尽き、黙ってしまった。

 (ごめんなさい、奈津さん……)

*  *  *  *  *  *  *  *

「おかしいなぁ、幸介さんどこ行っちゃったんだろ」
 静香が洗面室に向かって、周囲を見渡しながらやって来た。
 そのとき、まだ怒りが収まらない晋也と偶然出くわした。

 (ひょっとしてこの女、あいつの彼女か?)

 晋也は静香に近づき、奈津を連れ去った男の特徴を話した。そして同一人物だと分かると、しめた、という顔をした。

「その人なら、さっき女の人と出て行きましたよ。かなりラブラブの様子でしたが……お知り合いですか?」
「え? いいえ。あ、いえ、ただの友人なんです」
 静香はプライドが傷つけられ内心穏やかではなかったが、とっさに体裁を繕った。

 (私が幸介さんにジェラシー? ありえないわよ)

 だが晋也の思惑どおり、静香は嫉妬心をつのらせていった。


 幸介と奈津が乗ったタクシーが病院に着き、幸介は奈津を抱きかかえ車を降りた。

「幸介さん、自分で歩くわ」
 奈津は恥ずかしくて下りようとしたが、幸介は「遠慮しないでください」と奈津の気持ちに気づかず、入り口へ歩き出した。

 トゥルルル――

 幸介の携帯だった。

「電源入れっぱなしだ」
 奈津が「下りるわ」と言うので、今度はやむを得ず「すみません」と幸介は従った。
 それと同時に、着信音は切れた。そして着信履歴を確認する幸介だったが、その顔が一瞬強張った。
「……?」
 奈津の無言の問いかけに、幸介は笑顔を作った。
「一緒に飲んでいた妹からです。あとでかけ直します」

 幸介は相変わらず心配そうに見つめる奈津を、有無も言わさず病院へ担ぎ込んだ。

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