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水たまりの中の青空

#26 約束

 ここは夜間も開業している総合病院らしく、待合室には数人の人が居た。
 幸介はとりあえず奈津をロビーの椅子に座らせると、まず受付を訪ねた。そこで記入用紙を渡され、野中奈津と名前を書いたが、そのあと手が止まってしまった。奈津について、何も知らないのだ。埋められない空欄が、まるで彼女との距離のようで切なかった。

 結局ロビーで奈津本人に書いてもらい、あえて中身を見ないまま提出した。

 二人は診療室の前まで移動すると、長イスに少し離れて座った。幸介が遠慮したのだ。
 だが、奈津が何か言おうとしている。幸介は耳を近づけた。

「連絡、妹さんに」

 心配している奈津に、幸介の胸がキリッと痛んだ。そして、静香に対しても。


 静香は幸介が帰ったらしいと同僚に伝え、険しい表情でワインを飲んだ。同僚はあえて事情を詮索せず、お互い腹の探りあいで、これ以上話題にするのは止めた。
 だが間が悪く、静香の携帯が鳴った。幸介からだ。
 静香はやっと掛かってきた電話に飛びつきそうになったが、腹立たしさと同僚たちの手前、感情を押し殺した。

 幸介は開口一番、「申し訳ありません」と謝った。彼らしい態度だった。でも女の影がちらつく幸介に、静香は誠実さなど感じなかった。

「今どちらですか?」

 幸介の反応を窺うと、答えは意外なものだった。トイレで男と喧嘩して、殴られて病院にいると言うのだ。男と言われ、静香は真っ先に話し掛けてきた男性を思い出した。相手があの男だとすれば、女と一緒だったというのは狂言かもしれない。

「今、一人ですか?」

 「はい」という返事が戻ってきて、静香は内心ホッとした。そしてまた会える口実が出来て嬉しかった。遊びだったつもりが、いつの間にか本気になっている。静香はそんな自分の気持ちに、まだ気づいていない。


 静香は疑うことなく許してくれた。幸介に後悔は無かったが、やはり罪悪感は拭えなかった。

 ロビーに戻ると、奈津の姿が無い。

 (診察室に入ったのかな?)

 思った通り、診察室の前には香水と酒の匂いが残っていた。

 しばらくして忙しそうに出てきた看護婦に聞くと、奈津は点滴をして眠っているとのことだった。
 幸介はそれから長い間、祈るように奈津の回復を待った。

「どうぞ、目が覚めましたよ」

 看護婦に呼ばれ、幸介は立ち上がった。だが、入っていいのか迷っていると、看護婦が優しく微笑んだ。

 「会いたがってますよ、彼女」


 診察室の脇のベッドで、奈津が横になっていた。

「座って」

 遠慮して近づこうとしない幸介に、奈津は目で隣に来て欲しいと合図した。幸介は緊張しながら、ベッド脇の丸イスに腰掛けた。

「ごめんなさい……心配掛けて」

 派手な化粧の中に、優しかった奈津の面影が戻っていた。幸介の目頭が熱くなった。

「もう、痛くありませんか?」
「ええ、大丈夫」
 幸介が頷くと、奈津がためらいがちに言った。

「ありがとう……いつも助けてくれて」
「……」
 幸介は息を飲んだ。いつも背を向けてきた彼女の、予期せぬ言葉だった。

 奈津は天井を見上げると、そっと目を閉じた。

「私も同じ……どうしても忘れられなかった、あなたのことが」

 そのとき彼女の目から涙がこぼれた。
 幸介は体中が震え、心臓が波打った。声をかけたかったが、涙で言葉にならない。だが、今の二人には言葉などいらなかった。


 しばらく安静にしていた奈津を連れ、幸介は病院を出た。外はすっかり静まり返り、二人は呼んだタクシーが来るのを肩を寄せて待った。

 医者からは、検査入院することを勧められた。奈津はアルコール依存症と診断されたのだ。だから酒を抜くためにも、一人にさせない環境が必要だった。だが一人暮らしの奈津は、入院準備のため一旦帰宅することになった。

「本当に一人で大丈夫ですか? よければ、今日は僕のうちで」
「大丈夫安心して。もうお酒も飲まないから」

 それでも心配している幸介に、奈津が小指を出した。

「指切り」

 奈津は幸介のためにも、立ち直りたいと思った。

「じゃあ、また明日ここで」
 幸介の笑顔に、奈津も笑顔で答えた。

 落ち葉が佇む寒空の下、二人の周りだけはぬくもりに満ちていた。

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