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水たまりの中の青空

#29 緊張の密室

 幸介はこれが現実なのか夢なのか、分からないほど舞い上がっていた。奈津と別れた後も、いつも頭の中に彼女がいた。けれど、いつも彼女は近づいた途端消えてしまう。まるで幻のように。
 幸介は背中に奈津を感じながら、「どこにも行かないでくれ」と願っていた。

 と突然、奈津の手が肩から離れた――。
 幸介は遠のいて行く気配を感じながら、恐る恐る振り返った。すると目線の先に、少し下がって立っている奈津がいた。彼女は、遠い目をして見ていた。

「あ、すみません、僕ばかり拭いてもらって……」
 悪いことをしてしまったと、幸介は反省した。だが、もっと深い意味があるような気がして、彼女の瞳の奥を探った。

 すると奈津は、それを拒むように目をそらした。

 (何が言いたいんですか? 奈津さん)

 沈黙を続ける奈津に、幸介は胸の内を聞きたくなった。店を出たときは避けていたのに、ここでは親切にしてくれた。思えば、彼女の心はいつも揺れ動いてるようだった。やはり、赤堀が影響しているのか?

 幸介は当たって砕けてもいい、はっきりと彼女に告白したいと決意した。こんな激しい感情は、生まれて初めてだった。

 幸介は奈津の腕を掴むと、真剣な目で見つめた。

「正直に答えて欲しいんだ」

 掴まれた腕の力強さに、奈津は緊張した。いつもの幸介とは違う。このままではいけない――。

「もっと奈津さんのことが知りたいんです。楽しいときも悲しいときも、お互い側にいられるような、そんな関係でいたいんです。ダメですか?」

 ――奈津は激しく首を振ると、突然険しい表情を向けた。

「私を哀れんでるの? 私なら同情されなくても生きていけるわ」
 その目に、光るものがあった。

 幸介はショックを受けた。言葉だけではない、きつい口調の中に、彼女の弱さを見てしまったからだ。切なくなり、思わず彼女の体を抱きしめた。

「好きだ――」
「……」

 幸介は頭の中が真っ白になった。まるで夢を見ているようだったが、彼女から伝わる体温が、これは現実だと物語っていた。

 ――トントン

「失礼します」

 店員がジュースを運んで来た。

 奈津は一瞬緩んだ幸介の腕から離れると、倒れこむように壁にしがみついた。

 (奈津さん?)

 幸介が手を差し伸べようとしたとき、奈津が力尽きたように崩れ落ちた。

「――っ!」
「お客様ッ、大丈夫ですか!?」


 それから一時間、コートを掛け椅子に横たわっている奈津のそばで、祈るように幸介は座っていた。

 あのときもそうだった、病院の待合室で―― 

 でも今度は病院ではない。たまたま別室に医者のお客様がいて、彼の指示どおり奈津のカバンを開けたら、病院の薬が出てきたのだ。それは痛み止めの胃薬らしく、すぐに効いて眠ってしまった。だがその医師に検査を受けたほうがいいと念を押され、幸介は落ち着かずにいた。

 もう年末だ、今から精密検査は無理だろう。気は焦るが、とにかく年が明けたら病院へ連れて行こうと、幸介はただそれだけを考えていた。

*  *  *  *  *  *  *  *

 さらに30分ほどして、奈津は目を覚ました。
 朦朧としていたが、ここがどこなのか、すぐに状況は把握できた。
 奈津はゆっくり首を動かすと、幸介の姿を探した。丁度足元の直角に折り曲がった席に、彼は下を向いて座っていた。
 その様子を、奈津は黙って見つめていた。

 幸介はまるでその視線を感じたように、顔を上げた。

「あっ――」
 幸介は奈津と目が合い、あたふたと立ち上がった。
「あの、もう気分は大丈夫ですか?」

 奈津が小さく頷いた。そして微かな声で語りかけた。

「ねぇ……」

 幸介はドキッとして背筋を伸ばした。

「何ですか!?」
「ひとつだけ、お願いしたいことがあるの」
「何でも言ってください。僕、何でもしますから」
「今度、病院へ付き添って欲しいの」

 思いがけない頼みに、幸介は飛び上がりそうになった。嬉しくて嬉しくて叫びたいぐらいなのに、声が震えてしまいそうで何も言えなかった。
 幸介はもどかしい思いで、大きく頷いた。そして、見えないように小さくガッツポーズをした。

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