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水たまりの中の青空

#32 危険な賭け

 奈津はおととい晋也から言われた約束を守るため、早起きして出かける準備をしていた。化粧をしているときも頭を過ぎるのは晋也に対する不安で、何をやっても手につかなかった。

 今までは二人きりにならぬよう努めてきたが、今夜は無理かもしれない。奈津は重い溜息をつくと、鏡台の前から立ち上がり窓の外を見上げた。
 年末の賑わいなど嘘のように、静かで澄んだ青空だった。

 ふと去年の今頃、明彦と過ごしたハワイ旅行のことを思い出した。日本人観光客の取材を兼ね、二人だけで楽しんだ熱いバカンス。彼といると刺激的で、いつもときめいていた。まるで昨日のことのように思い出されるのに、もうあの頃とは違う。仕事も、恋も――何もかも変わってしまった。

 忘れてしまいたい過去と現実の狭間で、奈津はまた痛みに襲われた。そして這うようにベッドに腰をおろすと、まるで癒すように幸介の顔が浮かんできた。

 この前は強がってしまったが、本当はずっと一緒に居たかったのかもしれない……今の奈津にとって、幸介は誰よりも近くて大きな存在だった。

 (幸介さん、私に力を貸して)

 奈津は痛みを堪えると、戦闘服をまとうようにパンツスーツに着替え、晋也からの連絡を待った。


 幸介は配達のバイクを止め、胸ポケットからそっと何かを取り出した。以前環がくれた、縁結びのお守りである。中から丁寧に小さな紙を取り出すと、緊張気味に眺めた。奈津からもらった携帯番号のメモ――
 あれから二日、何度も彼女に連絡を取ろうと試みたが、結局通話ボタンは押せなかった。

 静香への遠慮もあったが、それ以上に友人と言われた事が見えないハードルになっていた。
 静香と一緒だったことを嘘でごまかしたり、きっと不誠実な男だと思われてるに違いない――静香とは何もなかったが、どこか積極的に弁解できない後ろめたさがあった。

 だがメモを見ると、今すぐ彼女のところまで飛んで行きたい気持ちに駆られ、声だけでも聞きたくなった。

「よし、今度こそ!」

 幸介は大きく深呼吸をすると、携帯を取り出しドキドキしながら奈津の携帯番号を押した。緊張の一瞬――

 だが――――彼女は出なかった。

 ガッカリしたのか、ホッとしたのか――?
 幸介は肩を落とし、また配達先へと向った。


 晋也は奈津のマンションの前に車を止め、携帯で彼女を呼び出した。
 今日こそ奈津を自分のモノにする――晋也の意気込みは今まで以上に真剣だった。
 彼女の気持ちなど関係ない。ただ貢いできた労力への見返りが欲しかった。もう、無駄足はご免だ。

 しばらくして、マンションの正面玄関から奈津が出てきた。デートには不釣合いなパンツスーツに、彼女の義務的な気持ちが表れているようで面白くなかった。

「珍しいな、そんな格好。けどちょうど良かったぜ、ドライブには好都合だ」

 晋也は心とは裏腹に笑顔を作った。


 車中での晋也は、BGMに合わせて鼻歌を歌ったり上機嫌だった。交わす会話も仲間内の話題が多く、ときどき二人の間に笑いがこぼれた。いつしか少しずつ緊張もほぐれ、奈津は危惧していたことが取り越し苦労に終わればいいと感じていた。

「お腹空いたなあ。弁当作ってくれた?」
「ええ――でも、どこで食べるの?」

 奈津は雰囲気を壊さぬよう、明るい口調で尋ねた。晋也も機嫌良く続けた。

「どっか景色のいいところで食おうぜ。たまにはハイキングってのもいいだろ?」
「うん……」

 晋也の車は高速を下り、人気のない道を進んで行くと、いつしか林道に入っていた。日差しは木々に遮られ、薄暗く淋しい。奈津はたまらなく不安になり隣を見ると、晋也の顔は非情なものに変わっていた。

 騙された――!

 ただのドライブではない……奈津は最後の望みを断ち切られたようで、蒼白になった。

「ねえ、この先に景色のいい所なんてあるの?」

 奈津は晋也を睨んだ。
 すると晋也は薄ら笑いを浮かべた。

「ここだって絶景だろ。人気が無くて、もう逃げられない」
「戻ってッ」
「ダメだッ、今日は俺の言う通りにしてもらう」
「卑怯だわ、こんなやり方」

 車が急停止した。

「俺だってこんな真似はしたくないさ。でも面倒なのはもうごめんなんだ」
「面倒?」
「俺が興味あるのはただ一つだけだ。あんたが恐れていることだよ」

 奈津は緊張で息を飲んだ――後悔するにはもう、遅すぎた。

「……分かったわ……でも、車の中は嫌……」
「じゃあ、外に出よう」

*  *  *  *  *  *  *  *

 晋也と奈津は、林道脇の林を奥へと入っていった。霧が立ち込めてきて、来た道は次第に消えていった。視野も段々狭まり、晋也は前を歩いている奈津に迫り、木に押し付けた。

「ロマンチックだよな、こういうのも」

 晋也がキスをしようとした寸前、奈津がポケットに隠し持っていた携帯を取り出し、アンテナ部分で晋也の胸を突いた。そして彼が痛がっている隙を見て、先に車へ戻ろうと全力で走った。
 段々晋也の呼びかける声も聞こえなくなり、彼の姿は完全に消えた。
 奈津はホッと息をついたが、安心したのも束の間、奈津は自分の居場所が分からなくなっていた。

 (どうして――もう着いてもいいはずなのに……)

 そして非情にも、車が走り出す音が聞こえた。奈津は一人取り残されたことに気づき、ただエンジンの音を不安な気持ちで聞いていた。きっと晋也は戻って来ない――帰るには歩いて行くしかなかった。

 大晦日の前日、昼過ぎのことだった……。

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