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水たまりの中の青空

#33 はじまりの夜

 奈津は晋也の車が走り去ったときの音を頼りに、元来た道を辿り始めた。霧はまた晴れてきたが、心細さだけは相変わらず付きまとう。頼りの携帯も圏外を示し、今は道に迷わないよう、勘と記憶だけが頼りだった。

 体力も仕事をしていたときに比べ、格段に落ちていた。30分も歩くと息は上がり、しゃがみ込むように立ち止まった。
 次第に不安と孤独で涙が溢れ、またあの日の自分に戻りそうになった。

 (あのとき別れなければ……)

 それは何度も自問自答してきた問いだった。その都度明彦に対する後悔で耐えられなくなり、いつも現実から目を背けてきた。
 でも今は違う。あの出来事を後悔してはいなかった。もう、逃げたりしない。

 強くなりたい、あの人のように――

 奈津は幸介の姿を遥か先に見つめながら、、もう一度立ち上がり歩き始めた。


 夜、幸介が仕事から帰り部屋で着替えていると、台所からシチューを温め直している環が話しかけた。

「さっき母さんから電話があって、来月の連休に父さんと二人で東京へ来るんだってさ」
「へえ、例の町内会の旅行かな」
「らしいよ。兄貴、静香さんと絶交状態みたいだけど、ちゃんと次の手は打ってあるの?」
「何だよそれ――まさか?! また恋人を紹介しろって言うんじゃないだろうな?」

 幸介はスウェットに足を通しながら、下着姿で台所に飛び込んだ。すると環は当然と言いたげに頷いた。

「静香さんから聞いたよ、二股かけてたんだってねー、さりげなく嫌味言われちゃった」
「そっか……ごめん、お前にも迷惑かけたな。でも、その人とは何の関係もないんだ……ただの友達だから」
「ひぇー、ガールフレンドだったら言うことないじゃない。これで船上ディナーにご招待決定ね。安心したわ」
 無神経とも思える環の強引さに、幸介は開いた口がふさがらなかった。

*  *  *  *  *  *  *  *

 そして幸介は気が重いまま、食事中から奈津を誘っていいものかどうか頭を悩めていた。親を安心させたい気持ちもあるが、その場しのぎで頼めることではない。今も自分の部屋に入ったきり、携帯とにらめっこだった。

 (友達……か、難しいよな……)

 弱気に溜息をついたとき、突然携帯のベルが鳴り出し、幸介は驚いて椅子の背もたれに体をぶつけた。
 だが、すぐにサブディスプレイを確かめると、相手の番号に思わず目を見開いた。

 (――奈津さん?!)

 あまりに唐突すぎて、幸介はあたふたと意味なく髪型を整えると、震える手で電話に出た。

「もしもし、幸介ですけど」

 だが聞こえてきたのは、聞き覚えのない男性の声だった。幸介は首をひねった。

「君、野中奈津って女性を知ってるね。どういう関係なのかね?」

 幸介は突然のぶしつけな質問に戸惑った。だが男は、一方的に話を続けた。

「彼女の着信履歴に、君の番号が残っていたんだよ。どんな用だったの?」

 相手はズケズケとプライベートにまで足を踏み込んでくるので、幸介はムットして 「どちら様ですか?」 と言い返した。すると相手はぶっきらぼうに「警察だよ、警察」と答えた。

「警察?!」
 どういうことなんだ――?

 幸介は話がまったく見えず、せっかちな相手の話に耳を傾けた。
「どうやら自殺を図ったらしいんだな。それで事情を確かめてるんだが、動機について心当たりはないかね?」

 自殺?! まさかッ、嘘だろ!!
 幸介は激しいショックで胸が押しつぶされそうになり、息をするのがやっとだった。

 (奈津さんが……死んだ…………)

 「もしもし、もしもし」という男の声が微かに聞こえる。が、絶望感で何も頭に入らない。
 しばらく意識が遠のいていたのか、何も聞こえなくなった後、今度は女性の声がした。

「幸介さん、聞こえてる……? 聞こえてたら返事をして」

 その声、話し方……奈津だった。だがそんなはずがない。きっと幻聴なんだ。

 二度と彼女の声が聞けなくなるなんて――幸介は込み上げる涙を止められなかった。

「どうして、どうして何も言ってくれなかったんだ……あなたを守るためなら、何でもしたのに……」

 幸介が悔やむように吐き出した言葉を、受話器の向こうで奈津が聞いていた。思わず胸が熱くなった。

「私は自殺なんかしてない……どうしたら信じてもらえるの……」

 涙で詰まりそうな奈津の声に、幸介はドキッとした。

「もしかして、本当に奈津さんですか?」
「ええ、私よ」

 これは幻覚でも夢でもないと、ようやく幸介は正気に戻った。確かに電話の向こうに奈津がいる。嬉しくて思わず飛び上がった。
「今からすぐそちらに行きます。どこですか? 会いたいんです、今すぐ」


 幸介は遠慮する奈津の言葉を無視して、バイクを飛ばして山中湖近くの駐在所に着いたのは、深夜のことだった。

 そこには電話をかけてきた恰幅のいい巡査と、衣服が汚れ頬にバンソウコウを貼った奈津の姿があった。
 巡査は幸介を迎えると、ばつ悪そうに頭を掻いた。

「てっきり自殺未遂かと思ってねえ、すまなかった。彼女は否定したんだが、女性が一人で行くような場所じゃないもんでね。花を摘もうとして転落したなんて、君なら信じられるかね?」

 確かに今日の奈津はスーツ姿で、レジャーにしては違和感があった。それもこんな場所に一人で来るなんて――幸介も不思議に感じた。

「もう大丈夫ですか? 奈津さん」
 彼女は俯いてた顔を上げ、小さく頷いた。 
 巡査は二人の様子を見て、また頭を掻いた。
「じゃあ、君が身元保証人ってことで、頼んだよ」
「はい、お世話になりました」
 幸介が礼を言うと、奈津も立ち上がって頭を下げた。

 二人は簡単な調書を取られ、無事解放された。

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介は後ろを気にしながらバイクまで歩いて行くと、ついて来ていた奈津に皮ジャンを差し出した。これは環に事情を説明したとき、「持っていって」と渡されたものだった。

「バイクですけど、乗れそうですか?」
 奈津は小さく頷き、皮ジャンを受け取った。

「ありがとう……いつも迷惑かけてごめんなさい」
「いいえ。こうして会えたから、それだけでいいんです……」

 二人の目が合うと、幸介が思わず奈津を抱きしめた。

 (あたたかい――)

 確かに奈津の体だ。前にも一度抱きしめた――彼女のぬくもりが腕の中にある。
 ただ一つ違うのは、甘い香りがしたことだった。

 (この香り――?)

 あのとき、沖縄でつけていた香水だった。幸介は懐かしい記憶と共に、運命のようなものを感じた。彼女を守りたい、そう思って彼女を見つめていた日々――そしてまた、彼女がこうしてそばにいる。でも、こんなに近くにいるのに、彼女は手の届かない存在だった。いつかは、誰かのものになってしまう――

「帰りましょうか……」

 幸介はぐっと自分の気持ちを押え、奈津から離れた。彼女は立ちすくんだまま、こちらを見ている。幸介は吸い込まれそうになり、慌てて目をそらした。そしてバイクのエンジンに手をかけると、後ろから奈津がその手を止めた。

「話したい事があるの……いい?」

 駐在所の明かりはいつの間にか消え、二人は僅かな街灯と月明かりの下、静かに歩き出した。

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