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水たまりの中の青空

#37 約束の電話

  幸介と別れ、軽い足取りでマンションフロアに入った奈津は、思わずフッと笑みをこぼした。

 未然に終わったキス――

 今でも、少しドキドキしている。

 (恋人……か)

 幸介と交わされた絆を感じながら、奈津はその言葉を噛みしめるように、ギュッと身体を抱きしめた。

 (あっ――)

 手に触れ慣れない感触――奈津は自分の姿に気づき、慌ててマンションの外へ飛び出した。だが幸介の姿は無く、角を曲がって行く彼のバイクが遠くに見えた。

 (幸介さん……)

 奈津は一人取り残されたような気持ちで、彼の余韻を見つめていた。

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介は奈津がマンションに入った瞬間、わき目も振らずバイクを走らせた。
 赤信号の度に焦らされ、背中に羽が生えたらどんなに良いかと、もどかしくなった。
 早く彼女に会いたい。早く電話しないと彼女が逃げてしまう、そんな気がした。

 なのに悪戯なアクシデントに見舞われ、帰宅が大幅に遅れた。
 幸介はやっとの思いでアパートに到着すると、一刻を争うようにバイクを止め、飛び跳ねるように階段を上った。

 (奈津さん!!)

 そのとき、幸介の足がピタリと止まった。

 深い寒空に、きらめく星と月。さっきまでぼやけていた夜空は、美しく澄み渡り輝いていた。

*  *  *  *  *  *  *  *

 携帯の置かれたテーブルの前で、幸介から借りた皮ジャンを抱きしめ、うずくまっている奈津がいた。

 (どうして……何かあったの?)

 幸介の住んでいる地域なら、とっくに着いている筈だった。なのに彼から何の連絡も無い。

 縁起でもないことばかりが頭を過ぎり、奈津は心細く不安になった。
 時計と携帯を何度も見返し、読みかけの雑誌は同じページのまま、一時間近く手付かずに置かれていた。

 そんな奈津の元に、やっと待っていた電話が鳴った。

 (――――!!)

*  *  *  *  *  *  *  *

『幸介さん!? 今どこ? 無事なの?!』

 突然飛び込んできた彼女の声に、幸介はあたふたした。
 近くの公園から電話をかけていたが、一気に寒さが吹っ飛んだ。

「は、はいッ。僕なら、元気です」
『そう、良かった……』

 彼女の心配している様子が手に取るように分かり、幸介の胸は熱くなった。

 (僕のために……?)

「心配かけてすみません。途中、変な車に追いかけられりしたもんだから」
『変な車……?』
「でも安心して下さい、バイクの運転には自信がありますから」

*  *  *  *  *  *  *  *

 奈津の表情は強張っていた。皮ジャンを握る手にも力が入り、思いつめたように一点を見つめていた。

「そうね……でも、もし幸介さんに何かあったら、私が守るわ、絶対に」

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介は緊張した。
 このただならぬ空気はなんだろう?
 「守る」と言う言葉も引っかかり、何か不安な気持ちにさせられた。

「ありがとう……でも奈津さんに言われると、ちょっと複雑だな……」
『――どうして?』
「僕は男だし、好きな人には頼られたいから」
『ごめん……傷つけた?』
「いいえッ。ただ、ちょっと驚いて」

*  *  *  *  *  *  *  *

 奈津自信も驚いていた。

 幸介にはいつも守られてばかりで、自然と自分の弱さや甘さを彼の前では許していた。
 でも今は違う。彼のお陰で少し強くなり、毅然とあの人≠ノ立ち向かえる気がしていた。

 (もしも……) 

 奈津は過去のある出来事を思い返しながら、今の幸せを守りたいと切実に願った。

*  *  *  *  *  *  *  *

 そんな奈津の過去や気持ちなど知るはずも無い幸介は、ただ穏やかな気持ちで夜空を見上げていた。

「奈津さん、星がきれいですよ」
『……?』

*  *  *  *  *  *  *  *

 奈津は窓の方を振り向き、立ち上がってカーテンをそっと開けた。
 陰りの無い、胸が空くような夜空だった。

「ほんと……まるで微笑みかけてるみたいね……」

 思わず目頭が熱くなり、奈津は涙をふさぐように目を閉じた。

*  *  *  *  *  *  *  *

「流れ星ッ」
『えっ? ……私には見えなかったわ。ねえ、幸介さんは何か願い事をした?』

 一瞬のことで、そんな余裕など無く消えてしまったのだが、幸介は願い事と言われ、どさくさに紛れ口走った。

「奈津さんと、ずっと一緒に居られますように――」
『……それなら、もう叶ってるかも。私も、同じだから』
「やったッ!」

 幸介は勢いよく飛び上がり、その拍子に携帯が手から離れ宙に舞った。

「あッ」

 そして不運にも、携帯は後ろにあった小さな池にポチャンと落ちた。

「うわーーーーッ」

*  *  *  *  *  *  *  *

 唐突に切れた電話を疑問げに覗きながら、奈津は何度も幸介の電話にかけ直した。が、彼が出ることは無かった。

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介はびしょびしょのズボンと靴で、公園内にある電話ボックスに駆け込んだ。
 すぐさまお守りの中のメモを取り出したが、見なくても自然と指は奈津の番号を押していた。

「もしもし幸介です。突然電話が切れて、すみませんでした」

 息切れした幸介の声に、慌てた奈津の声が返ってきた。

『何があったの!?』
「実は、池に携帯を落としてしまって」
『池? じゃあ、いま外?』
「はい」
「風引くわ、早く家に帰って」
『大丈夫です。奈津さんの声を聞いてたら、心が温まるから』

 ヘックション――!!

 間が悪く大きなくしゃみが出た。

『ほら……無理しないで、お願い』
「はい。じゃあ……一つだけ聞いたら帰ります」
『何?』

 幸介は一息ついた。ドキドキしている自分に、余計に緊張する。でも、こんなチャンスは滅多に無い。そう、今日は大晦日だった。

「あの、今夜、一緒に過ごしてくれますか?」

 とうとう言ってしまった。
 夜にデートなんて――でも、特別な日だから許してくれるかな?

『ありがとう……私も、誘ってくれるのを待ってたの』

 幸介は恋の神様に感謝した。
 大晦日に付き合うことが出来たことに――

 嬉しくて嬉しくて、幸介は頭を掻いたり、ホッペを抓ったり、ソワソワドキドキ落ち着かなかった。

「じゃあ、明日の昼頃、迎えに行きます。早いですか?」
『ううん、昼頃ね、待ってるわ』
「じゃッ、また」
『おやすみなさい』
「おやすみなさい」


 幸介は喜びを爆発させながら、公園を跳び回った。

 彼女と長い時間一緒に居られる、そう考えただけで、天にも昇る気持ちだった。

 だが、その前に肝心なことなを忘れていた。

「そうだ、環に何て言おう……」

 お節介な妹がまた早合点し、出すぎた真似をしないか今から頭が痛かった。

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