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水たまりの中の青空

#39 秘密の味

 好きな人の世話ができることが、これほど幸せなことなのかと奈津は喜びを込み噛みしめていた。

 別れた明彦は干渉を嫌ったので、家に行くことも手料理を振舞うことさえ夢のまた夢だった。まるで不倫してるみたいと彼を困らせたこともあった。

 でも幸介は違う。いつでも受け入れてくれる大らかさがあった。
 手書きの表札の「田中」という文字、ふと指でなぞって肩をすくめた。

 コツン――コツン―― 

 甲高いヒールの音が階段を上って来て、鋭い好奇の目が奈津に向けられた。隣に住む若い女性だった。

 奈津はハッとした。自分の行動が軽率だったことに初めて気づかされたのだ。

 幸介の妹はどう思うだろうか――

 そこまで考えも及ばなかった。
 いつの間にか知り合いのような感覚を彼の妹にも持っていた。だが留守中、幸介一人の部屋に上がりこんだと知れば、どう思うだろうか。奈津は考えあぐね、もう一度部屋の鍵を取り出した。


 幸介は奈津が家から出た後、パジャマを着替えようとベッドに腰を掛けていた。
 裸の上半身に冷たい空気が触れると、ひんやりとして気持ちよかった。

 バタン――

(奈津さん?)

 幸介は入ってくる足音に耳をすました。

 そして部屋の前で足音は止まり、扉がスーッと開いた。
 やはり奈津だった。

「――?」
「あッ、の……」

 奈津は一瞬言葉を詰まらせ、目のやり場に困りながら続けた。

「台所、借りてもいい? それから、冷蔵庫の中身も」
「はい、構いませんけど」

 奈津は小さく頷くと、すぐに扉を閉めて部屋から消えた。
 幸介は何も聞けず、少し不安になった。

*  *  *  *  *  *  *  *

 奈津は冷蔵庫を開けると、ガランとした中から野菜など次々取り出した。

(これなら幸介さんにも作れるかな)

 慣れない台所に緊張しているのか、それとも裸の幸介に動揺しているのか、奈津の手は、いつになくぎこちなかった。

*  *  *  *  *  *  *  *

 着替えも終わり、鏡を見ながら少し伸びた髭を気にしている幸介の鼻元に、台所からいい薫りが漂ってきた。
 幸介は覗き見したい気持ちをじっと堪えながら、台所に立つ奈津を想像した。

(奈津さんが料理か……意外と家庭的なんだな)

 ワクワク至福のときに浸っていると、程好く「お待たせしました」と奈津の声がした。

 お盆に料理を乗せ、奈津が微笑みかけている。幸介は慌ててベッドの上に正座した。

「もっと楽にしてて。お口に合うか分からないけど」

 奈津が幸介の膝の上にゆっくりとお盆を置いた。

「わあ、煮込みうどん!!」
「好き?」
「はいっ」
「よかった」
「でも、これ一人前じゃ?」
「うん……私はそろそろ帰るから」
「え?!」
「今日はお見舞いで来たんだもの、あまり長居したら悪いわ」
「そんな……」

 奈津は約束を守れなかったことを気にしながら、荷物を持って立ち上がった。

「妹さんの皮ジャン、持ってくるの忘れたの。今度お返ししますね」
「はぁ……伝えときます」

 肩を落としている幸介に、奈津は申し訳無さそうに言った。

「妹さんには、私が来たことは内緒にしてて」
「え?」
「料理も、幸介さんが自分で作ったことにして欲しいの」

 幸介は訳がわからず奈津を見上げた。

「今日のことは、二人だけの秘密」

 幸介はドキッとした。

「そうだ鍵――」

 奈津がカバンから鍵を取り出した。

「無用心だから、ちゃんと鍵は掛けてね」

 幸介はまだドキドキしていた。受け取ろうとした手が震え、奈津の指にわずかに触れた。

 そのとき、幸介の体中に電流が流れ、気づくと奈津の手を握り締めていた。
 驚いている彼女を意識しながら、幸介は自分の気持ちを止められず、動揺する彼女の唇にキスした。

 お互い俯き、緊張の空気が流れた。

 奈津は「お大事に」と言い残し、部屋を出た。

 せっかくの秘密の味は、ほろ苦く、しょっぱかった。

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