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水たまりの中の青空

#17 ライバル

 奈津と赤堀がフレンチレストランに到着すると、そこはカジュアルなイタリアンレストランに改装されていた。

「つぶれたのね、あのお店」
「そうみたいだな。場所変えるか?」
「ううん、もう遅いからここにしましょ」

 店内に入ると二人掛けの丸テーブルに案内され、二人は魚料理のコースを注文した。赤堀はワインを頼もうとしたが、奈津が運転があるからと言ってジンジャエールに変更した。
 それは、このあとホテルで休憩しないことを意味していた。
 赤堀が苦笑いすると、奈津も溜息混じりの笑みを浮かべた。

「明日も忙しいんでしょ? でも、元気そうで安心したわ。最近こんな偶然でもないと、顔も見られなくなったから」
「ああ。でもこういう生活にも慣れないとな。もう編集長とは違うんだ」
 赤堀の言葉に、奈津はホッとしたように息をついた。
「どうした?」
「本当は、避けられてるんじゃないかって不安だったの」
 一瞬赤堀が苦い顔をした。
「あのとき黙って帰ったこと、今でも後悔してるわ。あなたにはちゃんと謝りたかったし、今の気持ちも確かめたかった。けど、携帯が繋がらなくて」
「お互い、心の整理が必要だと思ったんだ」
 奈津はショックだった。やはり明彦に疑われていた。だが、ここで幸介の名前を出すことは憚れた。

「あのとき、急に気分が悪くなってしまって」
「気分を悪くさせたのは、田中幸介でしょ」
 突然会話に割り込んできたのは、泉近子だった。
「どうして君が! またつけて来たのか?」 
 赤堀はムッとしたように近子を見た。
 その向かいで、奈津は戸惑っていた。明彦の前で幸介の名前が出たからだけではない。近子が何を企んでいるかが分かるからだ。
「人聞きの悪いこと言わないで下さい。友人と食事を終えて帰ろうとしたら、丁度お二人が目に入ったものですから。それで挨拶をと思って寄ったら、気になる会話が聞こえてきて」
 赤堀は呆れたように目をそらした。

「奈津、停電のときエレベーターの中で田中幸介と二人きりだったこと社長に話したの?」
 赤堀と奈津の目が合った。
「本当なのか?」
 なじるような赤堀の目に、奈津は困惑した。
「何も疑われるようなことは無いわ。だから言わなかったの」
「無人島で一夜を共にして、今度は婚約発表をすっぽかして、好きあってる男と女が一緒に居たんだ、何も無いはずがないだろ」
「好きあってる?」
「婚約の件は、もう一度話し合ったほうがよさそうだな」
「明彦……」
 奈津は信じてもらえない自分が悲しかった。だが、奈津には言い返せない弱さがあった。

「次の日、会社の前に幸介さんを呼び出してたわよね、何の用だったの? すぐに電話を切っちゃって、私には聞かれたくなかった話?」
「近子ッ、もうやめて」
「やめないわよ。今まで仕事も恋も奈津には敵わなかったけど、これからは違う。明彦も社長夫人の地位も、必ず私のものにしてみせるわ。これは私からの宣戦布告よ」
「いい加減にしてくれ。君みたいな図々しい女には興味無いよ、さっさと目の前から消えてくれ」
「だったら、なぜ私を社長秘書にしたんですか? 私がメディアパーソナルの人達にアピールしたからと言って、あなたには断る権利があったはずよ」
「社長秘書?」
 奈津の問い詰めるような視線を、赤堀は意識的に避けた。

「分かったでしょ? 婚約者より、彼はこれからの地位を選んだのよ。私はそんな彼が好きだし、理解もしてる。奈津、もうあなたの役目は終わったの」

 奈津は愕然と立ち尽くしていた。もう目の前にいる恋人は、他人のように遠い存在になっていた。


 奈津はそのあと店を飛び出し、ひとり夜の街をさまよっていた。

 明彦の見えない心の奥と、近子の愛憎が奈津の心を締めつけていた。
 そんな絶望感の中、ふと無人島で助けられた時の記憶が蘇った。

(彼の優しさに、私は何度も救われてた……)

 そして幸介の笑顔が目に浮かぶと、奈津の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。

*  *  *  *  *  *  *  *

「奈津さん、昨日はすみませんでした。僕の独り善がりからあなたを苦しめてしまって。でも、本当は奈津さんに」
「――忙しいから」

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介と最後に交わした言葉だった。
 彼に悪気が無かったことは分かっていた。それなのに、あんな態度しか取れないことが辛かった。

(ごめんなさい――)

 奈津は溢れ出る涙をぬぐいながら、空を見上げた。
 月が美しく、頬に吹く風が冷たかった。


 「ねえ、デートの日にちが決まったよ。今度の日曜日、場所はミリオン」
 興奮しながら、環が携帯片手にリビングに飛び込んできた。
 その声に、ベランダで夜空を眺めていた幸介が振り向いた。

「ミリオンて、お前のバイト先じゃないか」
「そう、いいアイデアでしょ。兄貴は口下手だし、私とマスターでフォローしようって作戦なの」
「まるで子供扱いだな」
「恋愛ではね」
「分かったよ。お前たちの好きなようにすればいい」
 少し淋しげな幸介に、環は不安になった。
「やっぱり乗り気じゃないの?」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ――」
「もう夏も終わるんだなあって思ってさ。ほら、風が秋のにおいに変わっただろ。何だか、俺も変われるような気がするよ」

 幸介の微笑みに、環は複雑に頷いた。

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