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水たまりの中の青空

#19 嵐の前の静けさ

 幸介は完全に静香のペースに乗せられ、気付けば映画館の中だった。

 静香は 「二人で手探りしながら食べるの」 と弾むような笑顔でポップコーンを一つだけ買いに行き、幸介は彼女の無邪気さに引き込まれるように、いつのまにか失恋のことなど忘れていた。

 なのに――

「幸介さん、背中に何かついてますよ」

 売店から帰ってきた静香が、上着を脱いだ幸介の肩に目をやり言った。
 幸介は肩を振りかえると、ハッと息を呑んだ。

 鳩の糞には気をつけて――

 それは、初めて出会ったときの奈津の声だった。

 幸介は今朝、思い立ったように鳩の公園に出向いていた。決別のためだったのか、それとも、偶然を期待していたのか――
 この汚れは、その時についたものに違いなかった。
 幸介は静香に申し訳ない気持ちと後ろめたさから、居たたまれない気持ちになった。

「ちょっと、失礼します」

*  *  *  *  *  *  *  *

 洗面台に駆け込むと、幸介は周りの冷たい視線に小さくなりながら、上半身裸で糞のシミを取り始めた。が、いくら擦ってもシミは落ちず、まるで未練がましい自分を見せつけられているようで、心が痛んだ。

 (もう、こんな気持ちで静香さんとは会えない)

 幸介は友人として静香と付き合うことを望んでいたが、そんな中途半端な気持ちは彼女に対して失礼だったと、今更のように反省した。

 (こうなったら、静香さんに嫌われるしかないよな)

 幸介はシャツをハンドドライヤーで乾かすと、ボタンを互い違いに留めて洗面所を出た。


 幸介が席に戻ると「おかえりなさい」と静香が待ち構えていたように迎えた。

「あ……ただいま」

 幸介はドキドキしながら、席についた。

「あれ? 幸介さんボタン。一個ずれてますよ」

 静香の瞬時の反応に、幸介は「え!?」と驚く振りをしながら、内心気付いてくれてホッとした。

「僕ってほんとドジなんですよね。何やっても手際が悪くて」

 そう言いながら、幸介は全部ボタンを外し、わざとシャツの前を大きく広げた。
 すると静香はキャっと目を逸らし「見えてますよ」と小さくつぶやいた。
 幸介は思い通りの反応に、何食わぬ口調で続けた。

「僕ってデリカシーが無いんです。環の奴にもよく叱られるんですよ、キモイとか言われて」
 幸介はやれやれとシャツに手を掛けると、静香が身を乗り出してボタンを留め始めた。

「静香さん……」
 幸介は彼女の思いも寄らぬ行動に、完全に動揺した。

「これからは、私がついてますから」

 静香を更にその気にさせてしまった。幸介はどうしていいのか分からず、身の置き場に困りながら、早く上演のベルが鳴ることを祈った。


 奈津は西日の当たる部屋で、壁にもたれながら本を読んでいた。今まで何度も読み返した、明彦の作品の中で一番好きだった小説だ。ほのぼのとして、あったかくて、いつも心が癒された。なのに今は、止めどもなく涙が溢れてくる。悲しかった――。

 朝、奈津は鳩の公園を出たあと、結局オフィスに寄らず自宅のマンションに戻った。
 明彦と別れた状況が脳裏に浮かび、どうしても最後の一歩が踏み出せなかったのだ。

 明彦が立ち上げた会社を守りたい、その気持ちは今でも変わらない。でも、もうあの場所に自分の居場所は無かった。
 これも近子の差し金による罠だと分かっていても、彼女に負けたという思いから、言い返すことも、最後まで戦うことからも逃げ出してしまった。

 もう、駄目……

 奈津は本を閉じながら、明彦とはもう会わないと心に決めた。

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