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水たまりの中の青空

#21 偶然と必然

 幸介はバイクを止め、渋い表情で書留の封筒を取り出した。
 宛先はFits、奈津が勤める出版社だ。
 今まで顔を合わせたことは一度も無かったが、会わない保証も無い。
 幸介は目の前のビルを見上げながら、しみじみ思った。

 (すぐそこに居るんだな……)

 絶交された相手だった。だから二度と笑顔で会えるはずなどない。なのに楽しかった思い出ばかりが頭を過ぎり、手を伸ばせば届きそうな気がした。

 (ほんと馬鹿だよな、騙しておいて……)

 幸介はヘルメットの頭を拳骨で叩くと、小走りにビルへと入って行った。
 が運悪くエレベーターは点検中で、幸介は自分のツキの無さを嘆きながら、10階建ての階段を上り始めた。


 その頃奈津は、重い足取りで編集部を訪れていた。

「野中さん、社長から伝言です。出社されたら社長室に来るようにと」
「社長が? 分かったわ、ありがとう」

 編集員は皆外出中で、留守番の女の子からの伝言だった。かつて近子が担当していた役目だ。

 奈津は昨日の電話を思い出し、もしかしたら明彦は辞意を思いとどませる気なのでは、と思った。
 だが彼に会えば、きっと決心が揺らぐ。もう会わずに終わりにしたかった。
 だが、あいにく編集長は留守中で、面識の無い異動部署に辞表を出す気持ちにもなれなかった。
 奈津は仕方なく、社長室へ行くことにした。


 だが社長室の前まで来ると、奈津の気持ちは揺らいだ。

 彼の仕事をしているときの眼差し、励ましてくれたときの笑顔、声、しぐさ――思い出すと、胸が詰まりそうになった。

 奈津はひとつ深呼吸をし、目をつぶり、気持ちを落ち着かせた。
 そして辞表を手に取ると、意を決したようにドアをノックした。
 が、シーンとした空気だけが流れ、返事が無い。

 (おかしいわ……)

 外出するなら、バイトの子に伝えるはずだ。

 が、単に忘れられたのかも知れない、と奈津は自分の自惚れを恥じた。

 ガチャ――

 中にある社長室の扉が開く音がした。

 居る――!

 きっと近子が社長室から出てきたのだろう、と奈津は思った。
 奈津にとって、もう一人会いたくない相手。近子の顔を思い出すと、体が震えた。
 この場から立ち去りたい、そう頭では思っていても、無意識にドアノブに手が掛かる。
 どこかで、明彦を奪われたくないという気持ちが残っていた。

「失礼します」

 部屋に入ると、なぜか秘書室の電気が消えていた。

 (どうして――?)

 奈津は妙な胸騒ぎを覚えた。

 そのとき、秘書室と区切ってある社長室のドアが少し開いた。
 部屋の中はブラインドが閉められ、明かりが消されているのが分かった。
 奈津は固唾を飲んで一点を見つめた。

「あっ」

 それは奈津が先だったか、近子が先か。二人の驚きの声だった。

 近子は上二つのボタンが外されたブラウスを手で止め、もう片方の手で乱れた髪を直しながら出てきた。

「うそ……どうしてっ……」

 奈津はうわ言のようにつぶやきながら、後ずさりして部屋を飛び出した。

 奈津が去ったあと、近子は奈津が落としていった辞表を拾い、無表情のまま椅子に腰掛けた。

「もう終わりね、奈津」


 わずか一ヶ月ほど前、婚約という幸せの絶頂にいた奈津だった。
 なのに近子が本性を剥き出しにした時から、崩壊への道を転がり落ちた。そして今は、どん底にいた。

 (助けて!)

 エレベーターまで無我夢中で辿り着いた奈津は、工事中の看板に力尽きたように崩れ落ちた。

「ハア、ハア――」

*  *  *  *  *  *  *  *

 奈津が今聞いている荒い息は、幸介のものだ。
 下の階で書留を届けた幸介は、ようやく編集部のある10階に辿り着いたのだ。

「ひえー、とんだハプニングに見舞われちゃったな。今度、ジョギングでも始めるか」

 幸介はフラフラになりながら、エレベーターの前を通って入り口へと向かった。が、その足は途中で止まった。

 (奈津さん……)

 目の前で、壁に寄りかかってしゃがんでいる女性は、紛れも無く奈津だった。
 幸介の体は次第に震えだし、立っているのが精一杯になった。

 そして奈津も人影に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
 最初は普通の郵便配達員だと思って気にも留めなかったが、相手の異様な震えに気づくと、驚いたように顔を見た。

「――っ!」

 奈津は絶句した。

 そして幸介も、ガチガチで声が出せなかった。

 奈津は戸惑ったように立ち上がると、慌てて階段を駆け下りた。

「待って、奈津さん!」

 幸介はとっさに叫ぶと、気が気でない状態で仕事を片付け、急いであとを追った。

 (何があったんですか? 奈津さん――!)

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