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水たまりの中の青空

#30 ふたりの距離

 体調が良くなり起き上がっていた奈津は、新しく注文した紅茶を手に取り、一口飲んだ。その様子を、オレンジジュースを飲みながら幸介が見守っていた。

「あの、さっきはありがとうございました。一緒に、病院へ行きたいと言ってくれて」
 照れくさそうにストローを掻き回している幸介に、奈津は困惑気味に微笑んだ。

「迷惑じゃなかった……?」
「とんでもない。僕にとって奈津さんは、特別な人ですから」

 一瞬、奈津は表情を強張らせカップを置いた。

「ねえ、これを飲んだら出ましょ」

*  *  *  *  *  *  *  *

 幸介と奈津がレジまで行くと、先程の店員らが「よかったですね」と口々に集まってきた。
 幸介は嬉しさと照れくささで隣を見ると、奈津が丁寧に頭を下げていた。
 幸介はまるで恋人を見守るようで、胸が熱くなった。そして身内になったような感覚が、より恋心を募らせた。

 二人は見送る店員たちに感謝しながら、雨のやんだ深夜の街に出た。吐息が白く煙る寒さの中を、ぎこちなく肩を並べて歩く。まだ二人とも、緊張していた。

「終電、もう間に合いませんね」
「そうね……ごめんなさい、幸介さんにまで迷惑かけて」
「そんな、謝らないで下さい。僕は……奈津さんと居られるだけで幸せなんですから」

 奈津の足がピタリと止まった。

「どうかしましたか?」
「ねえ……ほかに、好きな人はいないの?」
「え?」

 幸介は一瞬、聞き間違えたのかと思った。自分の気持ちは伝えたはずなのに、何故そんな質問を――
 幸介ははぐらかされたような気がして、ショックだった。

「僕が好きなのは、奈津さんだけです。沖縄旅行のときから、ずっと。あの、奈津さんは、好きな人――?」

 奈津はハっとして幸介を見た。彼が望む答えは分かっている。そして、自分の気持ちも。だが晋也から聞かされた女性のことが気になり、どうしても言葉に出来なかった。そして、真相を問い質すことも――

「誤解しないで……私はただ、友人として幸介さんのこと――」
「そ、そうですか……すみません」

 幸介は何故か謝ると、くるりと背を向けた。
 奈津はその切ない背中を見つめながら、カバンを握り締めた。

「幸介さん」

 名前を呼ばれても、すぐに幸介は振り返らなかった。振り返らないのではない、振り返れなかったのだ。

 (ちくしょう、ゆがんで星が見えないよ……)

 星など見えない曇り空を見上げている幸介を、奈津は振り返ってくれるまで待った。

 そして数分が過ぎ、幸介はばつ悪そうに振り向いた。だが、なかなか奈津と目が合わせられない。自分の勝手な思い込みだったと知り、過去のフラれたトラウマが再び幸介を臆病にした。

「タクシー、拾ってきます」

 幸介はボソッと言い、一人で歩き出した。

「待って」

 奈津は小走りに回り込むと、幸介にメモを差し出した。

「私の携帯の番号……幸介さんには、知ってて欲しいから」
「え……っ」

 幸介は震える手で、そのメモを受け取った。その紙から、彼女のぬくもりが伝わってきた。
 好きになってくれなくてもいい、片思いでもいい、ただ、こうして彼女をそばに感じられれば、それでいいと思った。

「ありがとう――」

 幸介の言葉に、奈津が小さく頷いた。

 その後、二人は近くの通りで別れ、お互いタクシーで家路についた。


 幸介は妹になんて言い訳しようかと頭を悩めていたが、そんな心配は無用だった。
 帰宅すると、家の留守電に師範から環を泊めるというメッセージが入っていたのだ。どうやら、ベロンベロンに酔っ払っているらしい。
 幸介はすぐに迎えに行こうと思ったが、時間も遅く、今夜は師範の好意に甘えることにした。
 だが明日は、仕事が終わったあと謝罪にあがらねばと思っていた。もちろん、静香のこともあるからだ。

 幸介は寝床についてからも、いろいろあった一日を思い起こし、ときどき奈津からもらったメモを眺めながら、何度も寝返りを打った。

 (奈津さん……今頃どうしてるかな?)

 結局この日、幸介は寝付けないまま夜を明かした。

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