奈津の後をついて行きながら、幸介は冷静さを取り戻していた。友人だと釘をさされたにもかかわらず、また彼女を抱きしめてしまった。自分の感情を押えるのは苦しかったが、彼女の気持ちを考えると、後悔で胸が痛んだ。

　謝ろう――
　二度と過ちを犯すつもりは無いことを、彼女に約束したいと思った。とにかく、今は自分の煩悩を打ち消したかった。

　勢いよく奈津の前に回り込んだ幸介は、驚いて立ち止まった彼女と向き合った。

「奈津さん、あの、先程はすみませんでした。あなたを困らせるつもりなんて無いんです。ですから、さっきのことは忘れてください。二度と、あんな真似はしませんから」

　幸介は無我夢中で頭を下げた。これで彼女の気が和らぐとは思わなかったが、与えてしまった苦痛が、少しでも軽くなればと願った。

　暗闇に吸い込まれそうなシーンとした空気。彼女は今、どんな表情でこちらを見ているのだろう――？
　幸介は不安と緊張で動けなかった。

「謝りたいのは私の方なのに……私が間違ってたの……」

　奈津の細々とした声だった。そして彼女は一歩近づき、幸介の腕を掴んだ。
　幸介は戸惑うように顔を上げると、思いつめた彼女と目が合った。

　（何が、あったんですか……？）

「私は幸介さんが思ってるほどいい女じゃないわ。今日だって、ほかの男性と一緒だったんだから――」

　衝撃的な言葉だった。もちろん予感していたとはいえ、やはり彼女の口から聞くとショックだった。
　彼女が親しげに接してるのは、愛とは違う。ただの、友情なのだ。

「奈津さんが謝ることはないんです。僕が、勝手に好きになったんですから」

　幸介は精一杯強がり、そっと奈津の手をほどいた。
　すると奈津が引き止めるように声を掛けた。

「もう、赤堀と別れたことは気づいてるわよね……そのあと私は、晋也という男性と付き合うようになったの。ＢＡＲで幸介さんに喧嘩を売った人よ」

　幸介は青ざめた表情で振り返った。

「やっぱり、僕が余計なことをしたせいで？！」

　赤堀と奈津のことは、今までの彼女を見ていて想像はついていた。あのとき婚約発表を邪魔しなければ……その思いがずっと胸につかえていた。

　それどころかシンヤという男性といまだに付き合っている――幸介は胸が張り裂けそうになった。
　あのシンヤという男には、奈津への愛情など感じられなかった。今の彼女の暗い表情を見ていると、報われない虚しさと罪の意識でいっぱいになった。

　ぐっと唇を噛みしめている幸介を見て、奈津は慌てた。
　赤堀と別れた原因は幸介とは関係ない。確かに彼が近子に協力してしまったことは不運だったが、彼に悪気が無かったことは誰よりも分かっている。
　それに今こうして立っていられるのは、幸介のおかげだった。彼に責任など一切無い。悪かったのは、自分なのだから――
　奈津は俯いている幸介に、寄り添うように近づいた。

「誤解しないで。こうなることは、前から予感してたから……」

　切ない空気の中で、幸介の脳裏にパーティーで楽しそうに笑っている奈津の姿が浮かんだ。赤堀と幸せそうな佇まいの彼女。羨ましいほどお似合いのカップルだと思った。
　それなのに何故、赤堀と別れてシンヤという男と――
　幸介はやるせない思いを奈津にぶつけた。

「シンヤって人のこと、愛してるんですか？」

　その問いに、奈津は小さく首を横に振った。

「私は晋也を愛したことは一度も無かったわ……だから彼に対して、申し訳ないと思ったの」
「じゃあ、罪滅ぼしのために此処まで？」
「私には彼の誘いを断れなかった。明彦と別れた淋しさを、彼と居ることで忘れようとした時期があったから……だから晋也が最後に望んだことは、叶えたいと思ったの」

　幸介はハッと奈津を見た。争ったような服の汚れ――自殺未遂というのは、本当はシンヤという男に……

　奈津は幸介が何を考えているのか、直感的に感じた。

　何も無かった――――

　そう言いかけて、言えなかった。真実とはいえ、晋也とは決して綺麗な関係だけではなかったからだ。

　幸介には何もかも率直に話すつもりでいのに、純粋な彼を前にすると、奈津は何も言えなくなった。自分の身勝手さが、彼を傷つけてしまいそうで怖かったのだ。

「辛かったら、話さなくていいんです。僕は、あなたが居るだけで幸せなんですから」

　シンヤの話題に触れることを避けた幸介だったが、奈津はあえて話を戻した。

「私はもう嫌なの……終わりにしたかった、こんなこと」
「……？」
「晋也とは、この先の山林までドライブだと言われて一緒に行ったの。彼が車を止めたとき、何だか嫌な予感がして――」
「……っ」
「だから誘いに乗るフリをして、車を降りたの。彼を巻いて、車を奪って逃げるつもりだった。でも彼を振り切ったあと、霧で車を見失ってしまって……」

　幸介は奈津の話に固唾を飲んだ。

「そのあと彼は、一人で去って行ったわ。でも途中で待ち伏せされて――必死で逃げたけど、山の斜面で追いつかれて」
「分かりました。分かったから、もういいんです」

　幸介は辛くなって話を止めた。
　奈津とシンヤとの間に何かあったのかもしれない。でも幸介には、これ以上聞くことができなかった。
　だが奈津は、更に話を続けた。

「逃げ場を失ったとき、私はとっさに……晋也を崖から突き落とそうとしたの――」
「――！！」
「でも気づいたら、倒れていたのは私の方だった。きっと罰を受けたのね……それまでの私は、何度も、何度も、晋也をその気にさせて……」

　奈津は震える手で口元を押えた。
　幸介は思わず自分と静香との事を重ね合わせた。

「僕だって、同じです」
「……」
「奈津さんを病院へ連れて行った夜、本当は妹と一緒ではなかったんです。本当は、知り合いの女性と一緒でした。恋人役を頼まれて、僕もその場に流され、その人を傷つけてしまいました。僕も、過ちを犯したんです」

　やっと言えた事で心のつかえは取れたものの、奈津に嫌な思いをさせたのではと、複雑な気持ちだった。
　彼女は戸惑っているようだったが、意外にも幸介に向けた目は穏やかだった。

「ありがとう……話してくれて」

　（――っ？）

　幸介は緊張してた体から力が抜けた。
　彼女は、やはり知っていたのか？

　幸介は奈津が何を考えているのか必死で読み取ろうとしたが、心の中までは見えなかった。

　ただ隠し事を嫌い誠実に付き合おうとしている彼女に、幸介は感謝したい気持ちだった。
　女性に裏切られ続けた幸介にとって、奈津は本音で付き合ってくれた数少ない女性だった。恋愛を抜きにしても、信頼できる人なのだ。

「奈津さんの方こそ、言いづらいことまで話してくれてありがとう。僕は、あなたと出会えて本当に良かったです。これからも、友人として付き合ってもらえますか？」

　すると奈津は、少し考える表情を浮かべた。急に不安になった幸介は、　「僕って本当に鈍感ですね。こんなこと聞くなんて」　と、慌てて撤回した。

　すると今度は奈津が　「違うの」　と慌てた。

「幸介さんが誤解するのも無理ないわよね。私は半分も自分の気持ちを伝えてないんだもの」
「え？」
「沖縄旅行のとき、私はすごく追い詰められてた。何もかも嫌で、自分にも嫌気が差してたの。でもそんな私を、心配して見守ってくれてる人がいた……あのとき、どんなに救われたか、どんなに心丈夫だったか分からないわ。今だってそう、幸介さんのいない人生なんて、私にはもう考えられないの。私は悪い、素直じゃない女だけど、私も幸介さんと一緒にいたい、友達じゃなくて、素直に好きだと言える関係で」

　幸介はふわふわとした感覚で彼女の告白を聞いていた。何度も裏切られ冷たくされた相手だったが、本当は気持ちが通じ、受け止めてくれていた。
　幸介の目に涙が溢れ、彼女の「好き」という言葉が何度も胸にこだました。

　幸介は天を仰ぐと、一つ大きな深呼吸をした。そして涙をさっと拭き取り、笑顔で頷いた。

　気持ちを確かめ合った二人は、寄り添うようにバイクに戻った。

　時刻は零時を過ぎ、暦は大晦日を迎えていた。

＊　　＊　　＊　　＊　　＊　　＊　　＊　　＊

　エンジンを点けると、幸介は奈津のフルフェイスのヘルメットを取り出した。横では奈津が皮ジャンを羽織っていて、その光景はより幸せを強くした。

　二人はバイクをまたぎ、ヘルメットを装着した。女性をバイクの後ろに乗せるのは学生のとき以来だった。それも恋人を乗せるのは初めてで、幸介はちょっと彼氏風を吹かせたくなった。でもそれは勇気がいることで、少し戸惑った。
　すると奈津が、ポンポンと背中を叩いた。振り向くと、準備ＯＫという風に頷いている。
　幸介はヘルメットの前を開け、緊張しながら言った。

「しっかり掴まってろよ」

　奈津の表情までは見えなかったが、きっと驚いたに違いない。
　幸介は慌ててヘルメットを閉め、前を向いた。

　すると後ろから奈津の手が回り込み、背中にしっかり体が寄せられた。そして回り込んだ手がギョッと腹部を締めつけると、幸介はドキッとしてエンジンを吹かした。

　さあ、出発だ――

　二人の新しい関係の始まりだった。

第２章　終わり