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水たまりの中の青空

#36 唇の接近

 幸介は事前に奈津から聞いていた目印を頼りに、ようやく彼女のマンション前に辿り着いた。時刻は深夜三時を回っており、バイクは滑り込むように静かに止まった。

 幸介はヘルメットを外すと、オートロック式の明るいエントランスに目をやった。

 (やっぱり住んでるところも素敵だなぁ……。あれ?)

 そういえば、後ろに居るはずの奈津から何の反応も無い。不思議に思った幸介は、腰に回された彼女の手を軽く叩いた。

「奈津さん? 着きましたよ」

 だが返事が無い。幸介はそっと後ろを振り返ると、ぴったり寄り添っている彼女の姿が見えた。更に覗き込むと、彼女のヘルメットが上下に小さく揺れていた。

 (なんだ、寝ちゃったのか……)

 ふと幸介に笑みがこぼれた。なんとなく心を許されたようで嬉しいのだ。
 心地いいぬくもりと重さ――とてもいとおしかった。

 幸介は体いっぱいの幸せを吸い込むように、大きく深呼吸した。そのとき、彼女の体がカクんと態勢を崩した。

 (あぶないッ)

 とっさに奈津の腕を掴んだ幸介は、バイクを降りそのまま抱き抱えるように横に立った。顔を上げると、うっすら目を開けた彼女と目が合った。

 幸介はハッと手を離し、目を覚ました奈津は自分で起き上がりヘルメットを外した。

「ごめんなさい、いつの間にか眠ってたのね」
「はい……でも、走行中じゃなくて良かったです。もうすぐで落ちそうだったから」
「そう……きっと夢のお陰ね」
「夢?」
「――抱きついてる夢」
「誰に!?」

 真剣に聞き返す幸介に、奈津は戸惑った。

「……決まってるじゃない」

 奈津の笑顔は、少し淋しげに変わった。

「すいません、変なこと聞いて」

 すると奈津は首を横に振った。

「いろんな事があったんだもの、誰かを意識されても仕方ないわ。でも、これからは私の中には幸介さんしか居ないから、それだけは信じて」

 奈津に見つめられ、幸介は小さく頷いた。

 そして吸い込まれるように、彼女の唇に唇を近づけた。

 奈津も応えるように、ゆっくり目を閉じた。

 お互いの息が触れる―― そのとき

 (まぶしいッ)

「ヒュー、ヒュー、見せ付けてくれるじゃん」

 スピードを上げた車が、ライトで二人を照らしながら冷やかしの声を浴びせ通り過ぎた。

 一瞬の出来事で、奈津を庇うことしか出来ない幸介だった。

「大丈夫でしたか? 奈津さん」
「ええ……」

 動揺している奈津を、幸介は強く抱きしめたかった。だが気まずくなり、思わず抱いてた手をジーパンの後ろのポケットにしまった。

「あの、今日はもう遅いから、帰ります。僕はここに居ますから、気をつけて帰ってください」

 「お茶でも……」と誘うつもりの奈津だったが、彼の純情さにこれ以上踏み込めない気がして、黙って頷いた。

「幸介さんも気をつけて帰ってね……。 ねえ、着いたら電話して、起きて待ってるから」
「今日は疲れたでしょ? すぐに休んでください」
「私が声を聞きたいの、ダメ?」

 幸介は慌ててポケットから手を出し、バタバタと手を振って否定した。

「いいえ、僕だって奈津さんと……あの、必ず電話します」
「ありがとう」

 奈津が右手を差し出すと、その手を幸介が照れながら握った。
 まだ目の前の恋は頼りないものだったが、幸介には十分すぎる幸せだった。

「じゃあ、またあとで」

 彼女はそうつぶやくと、何度も手を振りながらマンションへと帰っていった。

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