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水たまりの中の青空

#38 大晦日のハプニング

 いつの間にか眠りについてた環は、いつもの目覚まし音で目が覚めた。

 片想いの女性のもとへ飛んで出かけたまま、何の連絡も無かった兄。こっちの気も知らないで――と、環は無性に腹が立った。

 最初は相手の女性か兄に何かあったのではと、落ち着かなかった。だが、次第に別の思いが膨れてきて、朝方まで眠れなかったのだ。

 兄はお見合いツアーから帰って以来、ずっとある女性のことを気にかけていた。コソコソ隠し事をしていたのも、きっとその女性のことに違いない。

 もし真夜中、彼女と二人っきりになったら、いくら奥手で真面目な兄でも、衝動を押えきれず狼に変わることだってあり得る。相手の弱さにつけ込み、彼女もその場に流されて受け入れるかもしれない。

 けどそれは、本当の愛ではない。冷静になれば、後悔と自己嫌悪に陥るだけだ。そんな恋は見たくないし、応援できなかった。

 環は自分でも意識しないまま、二人が上手くいくことは無いと決め付けていた。今までの兄を見てきて、相手の女性への不信感に縛られていたのだ。

 念のため環は、玄関に行って兄の靴がないか確かめた。すると靴があった。しかしその靴は、びしょ濡れで汚れていた。

 (何これ――!?)

 環は心配して、幸介の部屋を覗いた。

「ウウ…ナツ、さん……ハァ、ハァ……」

 初めて聞く女性の名前だった。どんな夢を見ているんだろう? 何を想像しているのか? 環は頭の中が真っ白になりドアを閉めた。

 そして静かにバイトへ出かける準備をすると、黙って家を出た。こんな朝は、東京に来てから初めてだった。


 その頃、奈津は待ち遠しく昼が来るのを待っていた。

 今まで幸介とは何度かプライベートでも顔を合わせたが、思えばいつも夜や人目をはばかる場所で、一緒に太陽の下を歩くのは久しぶりのような気がした。
 見られたくない部分もたくさん見せてきた人なのに、今日は少しでも良く見られたいと、朝から緊張気味だった。

 着ていく服を選ぶため洋服ダンスを開けると、どんな服装にしたらいいのか悩んだ。普段はスカートの奈津だったが、フットワークの軽い幸介のことを考えると、パンツスタイルに決めた。

 姿見の前に立ち、選んだ服を当ててみる――と、頬に貼られたバンソウコウが目に付いた。
 まだ昨日の今日なのに、デートに心躍らせている自分がいる。不謹慎ではないかという罪悪感がまとった。

 彼の横に並ぶには、まだ早いのかもしれない……

 奈津は急に不安になった。失った恋を忘れるために、別の恋に走る……それが自分の性分なら、本当の自分の気持ちが分からない。

 そのとき、携帯に知らない番号からの電話が入った。

 奈津は、幸介からかもしれないと思った。彼の携帯は、今故障していたからだ。あんなに待ちわびていたのに、奈津は複雑な思いで電話に出た。

「ハァ……ハァ……」

 受話器に強く息を吹きかけたような雑音が聞こえてきた。

 (いたずら!?)

 背筋が凍った。

「ふ〜ぅ……あ……」

 今度は言葉を発したが、無気味に思った奈津は電話を切ろうとした。そのとき――

「奈津、さん…………」

 (誰!? 知ってる人……? まさかっ)

「幸介さん……?」
「今日……行けなく……すみま……」
「どうしたの? 何かあったの?」
「いえ……」
「もしかして具合が悪いんじゃ? ねぇ、住所を教えて、今すぐそっちへ行くわ」
「いえ、心配、しないで……」
「ねえ、教えてッ。教えてくれないと、私またどうにかなっちゃうから」
「……」

 幸介は脅しのような奈津の訴えに、躊躇いがちに住所を教えた。

 奈津はなり振り構わず普段着に着替えると、仕事で使っていた地図と、念のため病気に効きそうなものを持って家を出た。


 昼過ぎ、奈津が番地とアパート名を頼りに、何とか幸介の家まで辿り着いた。

 奈津は幸介が起きて来れるか心配だったが、家の扉が少し開いていて、無用心なのは気になったが、幸介が開けておいてくれたのだろうと少し安心した。

「お邪魔します」

 遠慮がちに奈津が家の中へ入ると、部屋の中から「ピーピー」と笛の音が聞こえてきた。元気の無い擦れた音だったので、幸介の部屋からだと直感した。

 奈津は緊張しながら、その部屋の前で足を止めた。

「幸介さん? 入ってもいい?」
『どうぞ……』

 奈津は少し震える手で、そのドアを開けた。

 幸介は必死でベッドから起き上がろうとしていた。奈津は慌てて駆け寄ると、その体を抱きかかえるように支えた。

「駄目よ、じっとしてなくちゃ」
「すみません……」

 奈津はそっと幸介を寝かすと、そばに寄り添った。
 すぐそばに奈津の顔がある――幸介の心臓が波打った。

「体、熱いわね。熱、どれぐらいあるの?」
「さっき、38度まで、下がったんですけど」
「まだ高いのね……ねえ、氷ある?」
「はい、隣の、キッチンに」
「ちょっと借りていい?」
「はい」

 奈津は持ってきたカバンを持って、隣のキッチンへ移った。

 不思議と、幸介は熱にうなされていたことを忘れた。もちろん体の痛みや重さは残っていたが、それを感じさせないほど、元気が湧いてきた。

 奈津は氷嚢を持って戻ってくると、幸介の頭の下にそれを敷いた。
 そのとき、奈津の胸元がちらっと目に入り、幸介は慌てて目をそらした。彼女の香りと、触れるほどの距離――幸介の体は、くらくらするほど熱くなった。

「のど、渇かない?」
「大丈夫、です」
「ねえ……遠慮しないで。私は、幸介さんのお世話ができて、嬉しいんだから」

 幸介は益々ボーっとした。

「あの、妹さんは?」
「仕事、です。夕方には、戻ると思いますけど……」
「そう……帰ってから食事の準備じゃ、大変よね……」

 幸介は奈津に顔を傾けた。

「奈津さんは、気を使わないでください。こんな体で、大した御もてなしも出来ないけど……今日は、美味しいものを食べに行くつもりだったんです……だから、奈津さんの好きなもの、ご馳走させてください。こんな所で、申し訳ないけど……」
「……ありがとう。気持ちは嬉しいけど、幸介さんと一緒に食べれる物の方が、ずっと美味しいと思うわ。良かったら、私に用意させて?」
「そんな……」

 ここまで来てくれただけでも遠慮があるのに、そこまで甘えては幸介の気がすまなかった。

 だが奈津には、幸介の心遣いが優しさとだと分かっていても、他人行儀な気がして淋しかった。

「ねえ、幸介さんは私を助けたとき、どんな気持ちだった?」
「え?」
「じっとしてられなかった、違う?」

 奈津に受け入れられたときの喜びと、拒否されたときの悲しみが、幸介の胸に蘇った。

 (独り善がり、なのかもしれないな……)

 幸介はじっと奈津を見つめたまま、小さく咳払いして言った。

「あの、何か、さっぱりしたものが食べたいな」

 奈津は嬉しそうに微笑むと 「分かった。じゃあ、何か買ってくるね」 と立ち上がった。

 幸介は一瞬、奈津が奥さんだったら――と思った。

 (でも、彼女はどう思ってるんだろう――?)

 キュンと胸が苦しくなった。

「あ、の……」
「何?」

 奈津が振り返ると、幸介はドキッとして言葉に詰まった。

「あの…………財布が、机の上に……」
「心配しないで、幸介さんは無理しないでゆっくり休んでてね。じゃ、行って来ます」

 奈津が出かける姿を、幸介は溜息混じりに見送った。一緒に居ても、まだ付き合ってることに疑心暗鬼だった。
 いつになったら、心の底から恋人と呼べるんだろう――

 キスしたとき? それとも……

 そのとき、奈津が早足で戻って来た。幸介の心臓がひっくり返った。

「ねえ、玄関の鍵だけど……あっ」

 奈津は幸介の机の上の鍵に気づき、「借りてもいい?」と指差した。
 幸介は、「はいッ」と慌てて返事をし、今度は少し引きつった笑顔で見送った。

 (今が幸せなら、それでいっか……)

 ホッとした途端、お腹がグーーっと鳴り、幸介は可笑しくて一人布団の中で笑いを堪えた。

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